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田代 学氏発行による「消えた赤江川(大淀川界隈新風土記)」より転載
流失した17本の橋

田代 学

 昭和2年8月11日、高松橋、橘橋、赤江橋が流失した。

 宮崎市史年表にはこのように書いてあるが、当時は台風などによる大水は大淀川を氾濫させ、そこに架かる橋をいとも簡単に流失させていたのである。

 現在からは想像もつかないのだが、この昭和2年当時大淀川に架かる橋は橘橋、高松橋そして赤江橋の3橋しか無く(本町橋の項参照)、この年の8月11日わずか数時間の内に大淀川をまたぐ橋は鉄橋を除いて全て流失したのである。

 明治13年に福島邦成によって初代橘橋が架橋されてから50年近くたった昭和2年でさえ、大淀川には3本の橋しかなかったのである。しかも橘橋以外に大淀川に架橋されたのは大正12年の赤江橋まで初代橘橋架橋後、実に44年の歳月を要したのである。


 人間と大淀川との戦いは[治水]とともに[架橋]であったと言っても過言ではないが、大淀川における架橋とはまさしく川と人間の戦いであり、永久橋(コンクリート橋)以外の大淀川に架橋された橋、つまり木橋は全て大淀川という自然の力に負けたのである。実にその数は橘橋、赤江橋、高松橋、本町橋、小戸之橋の五橋において計17本に及んだのである。

 流失した橋は橘橋が昭和5年の5代目、赤江橋が昭和11年の4代目、本町橋が昭和16年の初代、小戸之橋が昭和29年の2代目そして高松橋が昭和42年の5代目までに架橋された全ての(木製)橋は流失したのである。その後、橘橋、高松橋、小戸之橋は永久橋となったが、赤江橋そして本町橋の2橋だけは再架橋されることなく、大淀川から永遠にその姿を消したのである。

 現在でこそ橋と言えばコンクリート製のものしか見ることもないが、宮崎市民は30年足らず前までは木橋が大淀川の濁流に流される状況に出会っていたのである。ちなみに永久橋化されたのは橘橋が昭和7年、宮崎大橋が昭和32年、小戸之橋が昭和38年、大淀大橋が昭和46年そして高松橋が昭和59年と橘橋を除けば昭和30年代まで大淀川にコンクリート製の橋は無かったのである。

 橘橋、本町橋は別項で詳しく述べるので本項では省略する。


 赤江橋は日豊本線の鉄橋から100メートルほど下流(以前は旅館待月があった)から対岸の城ヶ崎(以前は宝泉寺前の道路に続いていた)に架けられていた橋で、一般からの公募による架橋資金によって大正12年12月26日に架橋された。
赤江橋架橋組合(組合長・綾部千平)によって渡り賃(大人2銭、子供1銭)を取ったので[賃取り橋]と呼ばれたが、昭和5年3月に架橋組合は宮崎市に赤江橋の寄付を申し出ており、その後は無賃橋となったと思われる。

初代橘橋明治13年福島邦成が私財をもって独力架橋した初代橘橋は渡り賃を取ったので「退庵(邦成のこと)は大きなハシ(橋)で飯を食い」と皮肉られたこともあり、現代でもこの川柳を用いて邦成を評価する人がいる。しかし邦成が私財にて架橋した初代橘橋から44年後それも一般からの公募資金によって架橋された赤江橋でさえ、その維持・修理のために賃取橋であった事実を邦成の功績評価の引き合いに出した人は残念ながらいない。


 昭和2年、大淀川の増水によって流失した初代赤江橋は翌年再架橋されたが、昭和5年、8年と流失した。そして昭和9年に架橋された4代目赤江橋は前日からの暴風雨によって昭和11年7月23日に流失したのを最後に二度と架橋されることはなかったのである。

 なお高松橋と本町橋(一部)もこの日流失したが、昭和7年に完成していたコンクリート製の6代目橘橋だけは無事であった。


 橘公園から吾妻町に向かって鉄橋から50メートル程行くと民家の間に大淀川に抜ける幅5メートル程の道があるが、これこそ赤江橋に続いていた道であり今もそこには赤江橋架橋碑が残されている。さらに堤防に上ると(引き潮の時だけであるが)この道の対岸への延長上大淀川の中岸付近には赤江橋の橋脚が10数本残っているのが確認できる。

 初代赤江橋と同じ昭和2年に流失した初代高松橋は現在の橋の位置よりも約50メートル程上流に赤江橋に遅れること2年、大正14年4月3日にやはり架橋組合によって賃取橋として架橋された。この初代高松橋は昭和2年に流失したが、再架橋された年月日は記録に残されてはいない。

 2代目高松橋が再架橋された年月の記録を見い出せなかったが、俳人・山頭火日記の中に高松橋のことが記されている。昭和5年9月28日、生目神社に参拝した後「帰路は近道を教へられて高松橋(渡り賃3銭)を渡り、景清公御廟といふのへ参拝する・・・」と書かれており、昭和5年には2代目高松橋が完成し、依然として賃取橋であったことも記されている。なおこの2代目高松橋は昭和6年に宮崎市に移管された。

 2代目高松橋は昭和11年4代目赤江橋、本町橋とともに流失し、再三再四と架橋されるものの昭和25年、29年に流失するに至った。5代目高松橋は昭和31年に架橋されたが老朽化とともに一部破損などが加わり、やがて通行禁止となり橋路は草が生い茂げ、欄干は朽ち果てるという状態に放置されたままであった。そしてついに昭和42年7月3日大音響とともに崩壊したのである。しかし昭和32年に500メートル程上流に架橋された宮崎大橋のために高松橋は必要とされず、再架橋の計画さえ生まれなかったが、大塚台、生目台団地の造成とともに高松橋は再びその必要性を迫られ、昭和59年に永久橋として復活し現在に至っている。

 高松橋記念碑は高松橋付近にはなく鶴島の小戸神社横の下水流児童公園の片隅に立っている。石材の関係であろうが、石の磨耗が強く碑文も簡単には読めない状態である。


 話は元に戻るが、昭和2年に橘橋、赤江橋、高松橋の3橋が流失したが、これら既存の橋の再架橋工事よりもいち早く架橋されたのが後の本町橋である。だがこの本町橋も昭和16年10月1日に流失したため、昭和22年に元の位置より1キロメートル程下流に本町橋再架橋工事が開始されたが(起工時には本町橋の復旧工事とされていた)、昭和23年2月28日の完成時には小戸之橋と名付けられたのである。そのために本町橋は大淀川に架けられた橋としては一度も再架橋されなかった唯一の橋となったのである。また小戸之橋は昭和24年、29年の2回流失し、昭和38年に永久橋となり現在に至っている。

 本町通の延長線上にない橋が本町橋と名付けられなかったのは当然であり、それ以上に[小戸の渡り]にほぼ一致した位置に架けられた橋を[小戸之橋]と名付けたのは意味深いものがある。また江戸時代以前は小戸之橋付近の大淀川は北側が岩ヶ瀬水神神社付近までそして南側は八坂神社付近まで大淀川が広がっており、現在よりも約100メートル川幅が広かったことがわかっている。

 人間と大淀川の戦いは木橋が大淀川から無くなった昭和42年の高松橋崩壊以後繰り返されてはいないが、その30年足らずなど大淀川5000年の歴史からみればほんの一時に過ぎないのである。


(参考資料)
 宮崎市史 宮崎市史年表  宮崎県政80年史 宮崎県50年史 宮崎県政外史 山頭火日記