みんなで広げよう「橋の日」を 8月4日は「橋の日」記念日

宮崎の橋についてもっと知りたい方 [ 宮崎と橋 へ戻る ]

序章

田代 学

 今までに、郷土誌や新聞などに掲載された福島邦成に関する記事は数多いが、そのほとんどは同じ内容の転載である。とくに、近年引用される記事の多くは、昭和53年に宮崎市役所が発行した[宮崎市史続編](以下宮崎市史)に出典を求めることができる。

 その全文を示すと

 「福島修斎は市内大淀の人で名は邦成で修斎または退庵などと号した。家は代々延岡藩に仕えて医を業とし、その祖順庵以来大淀に住んだ。父は仁安と称し、修斎は文政2年(1819)に生まれた。天保7年(1836)17才のとき、感ずる所があり父に乞うて江戸に上り、古賀 庵の門に入り、さらに昌平黌に入って佐野常民その他の名士と交わり、また伊東玄朴と坪井信道について薬学を修め、西洋医学を研究した。延岡藩ではその篤志を認めて学資を給した。天保11年7月江戸を出て東北地方を巡って風俗を調べ、名勝を探り、賢人、学者を訪ねて交遊を求め、さらに遠く蝦夷地の境に行って国防を憂えたが、同年10月江戸に帰った。14年3月、7年ぶりに帰郷、老父に代わって医業を継ぎ、延岡と大淀の間を往復して、君に仕え、親を養い、医業に専念した。

 明治2年(1869)亡父の喪が明けるとともに世界一周を志し、単身清国(中国)に渡り、上海より江南に入り、香港、アモイを経てシンガポールに行ったが、事故があって郷里に帰った。そして公益事業を起こそうと考え、まず宮崎と大淀の間を流れる大淀川に橋がなく、県をはじめ多くの人々が不便を感じているのを見て、この不便を除くため架橋の必要なことを力説したが、事が余りに大きいのであえて賛同するものがなかった。それでもなお研究して同12年設計ができたので県庁に許可を求めたが県庁は許可しなかった。それでやむなく多くの人々と相談して汽船を買い入れて、これを日向丸と名づけ、日向諸港を経て大阪に至る航路を開いた。これは便利で多くの人が喜んだ。しかし修斎の素志はこのようなことではなく、あくまで大淀川に橋を架けることであった。

 翌13年再び県庁に対して架橋の願書を提出し、許されねば直接政府に提出すると言ったので、回船事業を行った手腕を認めたのか県庁もこれを許した。そこで数千円を投じて着工し、あらゆる中傷や妨害を排して数カ月後にして完成した。そして自ら命名して橘橋と称し、自分も橘南という別号を用いた。橋の長さは1260尺(約382メートル)幅13尺(約4メートル)の木橋であったが、当時の不便な渡し船を排し、上下の便益を増進したことは偉大であった。しかしもしこれが流失するようなことがあれば再び独力でかけ替えることは不可能であったので、その準備費として一時、渡橋者から橋賃を徴していたが、修斎はついにこれを県に寄付した。

 そして明治31年1月病没した。(宮崎県大観及び墓誌による)」となる。

 この宮崎市史の内容の事実関係に関しては、本文で言及するが、福島邦成の全体像を理解するには、実に簡略でわかりやすい文章であり、多くの人々がこれを引用し、彼の業績を語ってきたのである。

 一方、この宮崎市史の参考文献として記されている[宮崎県大観]は、大正四年に同編纂委員会が祖国日向を顕昭し、日向を代表とする多くの人々の事業を明かにした大書であり、実際に市史が引用した邦成に関する記載も認められる。

 さらに、宮崎県大観の記載内容の出典を調べていくと、邦成の没翌年の明治32年に発行された漢文体の[修斎遺稿]を全文そのまま古文体とし、加えて墓誌の全文をそのまま掲載したものであることがわかる。

 つまり、宮崎市史における邦成の記載は、大正四年発行の宮崎県大観引いては明治32年発行の修斎遺稿からの引用と言っても過言ではない。

 また、宮崎の主要な郷土誌の一つである昭和9年発行[宮崎県50年史]と昭和29年[日向郷土事典](共に松尾宇一著)における邦成の記載は、いずれも宮崎県大観と同じ大正4年に宮崎県が発行した[宮崎県嘉績誌]をほぼ全文引用している。

 この宮崎県嘉績誌も基本的には、修斎遺稿が根源にあり、記載内容や略歴の年月日などが、若干詳細になってはいるが、その真偽に関しては検討の余地が多く、本書で明らかにしていきたい。

 このように、既書における邦成の記載のほとんどが、修斎遺稿を模倣してきたいわゆる[孫引き本]の中で、原典つまり邦成自身の史料を検証した[宮崎県医史](昭和53年宮崎県医師会発行)は称賛に値するものである。

 この医史の編者は、著者の実父田代逸郎であるが、彼は邦成の三男邇の長男邦勝の夫人であった故福島芳子氏の協力を得て、邦成の残した多くの文書を探し、ほぼ原文のまま同史に掲載している。もちろん、医学的内容が中心であるが、この宮崎県医史によって、修斎遺稿には記されていない医師福島邦成の実像を初めて浮かび上がらせたのである。

 宮崎県医史を除けば、邦成の死後、今日まで伝えられている邦成像は、ほとんどが前述の修斎遺稿の転載によると言っても過言ではない。

 この修斎遺稿は、邦成の没翌年の明治32年3月15日三男邇(ちかし)によって発刊され、鱸元豪による約1400文字の邦成の漢文履歴、日本赤十字社長佐野常民撰の序文そして邦成の1000余の遺作より文4篇、詩文62編が掲載されている小冊子である。

 小冊子とはいえ、明治中期に宮崎の故人の経歴等を活字本にすること自体が驚きであり、邦成が冊子にされるべき人物であったことでも、彼の業績を知ることができる。  しかし、残念なことに邦成の三男邇が発行したとはいえ、修斎遺稿は記載内容の裏付けを取っておらず、また後年の人々もそれを信じて修斎遺稿を超える邦成の研究は今まで行われなかったのである。  

 今回、邦成の没後100年を機に、福島家の協力を得て、既書に頼らず原典から彼の生涯を出来る限り正確に探り、邦成の生涯と彼の見た宮崎の幕末そして黎明期に戻ってみたい。

 また、既書の問題点を指摘し、本書の根拠を示すために、繰り返し資料の出典とその原文をできる限り記しているために、若干読み辛い点があるが、その主旨をご理解いただきたい。



前のページへ戻る