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田代 学氏発行による「消えた赤江川(大淀川界隈新風土記)」より転載
初代橘橋と福島邦成

田代 学

初代橘橋と福島邦成  明治13年、初代橘橋を架けたのは行政(当時、宮崎県は鹿児島県に併合されていた)ではなく、福島邦成という一人の太田村中村町の医師であった。

 福島邦成という人物について[橘橋を架けて金を取ったらしい]という程度の知識をもっている宮崎市民はまだ良い方で、ほとんど知られていないのが実状である。本書を進める内に邦成という人物を調べていくと江戸時代末期から明治時代前半にかけて彼が宮崎に果たした役割は驚嘆に値するものであり、わずか数10頁で彼の業績や人間性について言及できるものではないことを知った。本書には本項以外にも度々、邦成が登場してくるが、それでも彼の実像に迫ることは困難であろうと思われる。

福島家の先祖は源氏の頼光にさかのぼる。源頼光の子を頼國と言い、8世の師光が摂津国(現在の大阪府から神戸付近にかけての藩政時代の国名)福島に住んだことから、その[居を氏となす]に至ったとされている。師光から26世を順安といい、初めて日向国太田村に住み、その後代々延岡藩に仕えて医を業とした。

 順安を初代として代々医を業とし、12代にあたる父・仁安は石川氏を娶って文政二年(1819年)正月、邦成が生まれたのである。そして天保七年(1836年)邦成17歳の時、江戸・京都・大阪に上り、当時の最高学府(昌平黌や適塾など)に学び蘭学、西洋医学・薬学を修め医師となり、7年後の24歳(1843年)の時に帰郷、中村町へと帰ったのである。

 邦成の業績については彼の全体像がわかる程度に本項では簡単に列記するにとどめる。

 帰郷した邦成は父・仁安に代わって延岡藩に仕え、幕末まで延岡と宮崎の間を行き来し、医業ならびに子弟の教育に専念した。その間、若山健海(若山牧水の父)とともに、宮崎県(当時は日向国)ではじめての牛痘接種(天然痘の予防)を行なっている。49才の時に明治維新をむかえ、明治4年52歳の時に太田村に宮崎病院を設立した。その後明治10年58歳の時に西南戦争を経験し、戦後処理のために宮崎出張警視病院長を命ぜられている。その他にも医学講習所を設けたり、建医学所議(医学教育機関設立の必要性を訴えた)を上奏したり、邦成は藩政時代末期から明治時代初期にかけて[宮崎県の医学の発展に極めて貢献]した人物であった。

 医師としての邦成の業績は関係者以外にはさほどの興味も抱かれはしないであろうし、さほどの驚嘆にも値しないであろう。また実際に医師以外の邦成があったからこそ医師としての邦成の評価が現代に伝えられていると言っても過言ではない。

 江戸・大阪に留学中の天保11年(1840年)21歳の時、邦成は3ヶ月にわたって東北地方を巡って風俗を調べ名勝を探り、賢人・学者を訪ねて交遊を深め、さらに遠く蝦夷地の境まで行って国防を憂えたという。

 その後は延岡藩に仕え医業に専念していたが、明治元年7月49歳の時に世界一周を志し単身清国に渡り、上海より江南に入り香港、アモイ(福建省南部の地名)を経てシンガポールまで行っている。しかしそこで事故に遭って明治2年6月、長崎に帰り、9月帰郷した。さらに明治3年3月、フランスマルセーユまでたどり着くものの、フランス戦争(1870~1871年)のため上陸できず、止むなく帰国の途に就いている。


 明治12年60歳の時には大淀川に架橋の必要性を唱え、県(当時は鹿児島県に併合)に架橋願いを提出するものの、[架橋は美事なり]と架橋は許可されなかった。しかし有志とともに蒸気船日向丸を購入し、日向諸港(美々津、広瀬、赤江、内海)を経て大阪に至る航路をはじめて開いたのである(赤江港の項参照)。そして翌13年再び架橋の必要性を説き、ついに許可され独力私財を投じて大淀川に木橋を架け、自ら[橘橋]と命名したのである。

 明治時代初期に蘭学、医学、薬学などを極め、東京(江戸)、大阪、京都、東北さらには蝦夷地の境まで行き、東南アジアから欧州まで旅した邦成の見識、学識そして未来への展望は如何なるものであったのであろうか。ましてや、そんな邦成を理解しうる人物がこの宮崎の地にいたのであろうか。それ以上に邦成ほどの人物が宮崎の地に下野していたことに疑問すら感じるのである。


 邦成が私財を投じて明治13年に2月に開始された大淀川架橋工事は同年4月24日には早くも開橋式を挙げ、邦成自ら[橘橋]と名付けた。工費1,700円(一説には2,000円)は全て邦成が個人で負担したのである。

 1,700円という金額をどのように評価すればよいのかは難しい。当時の小学校校長の月給が約10円(村長もほぼ同様)であり、現在の小学校校長の月給を若干低く見て40万円とすると、橘橋架橋費用1,700円は現在の6、800万円に相当する。その他の物価などでも計算してみても架橋費用は軽く5、000万円以上に相当する金額であることは間違いない。

 邦成は自らが架橋した橘橋の渡り賃を取ったために
「退庵(邦成のこと)は大きな橋(著)で飯を食ひ」
と川柳に謡われたというが、当時の人々がどのような気持ちで、何を理解してこの句を詠んだのだろうか。


 明治3年、政府は[賃取橋の架設]を奨励しているが、これは(自治体に金が無いなら)金を取ってもいいから橋を架けて交通・流通を進めようとしたことなのであろうが、橋という概念すら頭に無かった宮崎の人々が賃取橋の意義すら理解できなかったのは当然であろう。

 藩政時代には八百八橋の町として知られていた大阪では、当時すでに架橋に加えて橋の修理・維持にかかる費用が極めて問題になっていたと、昭和11年発刊の大阪市政に詳しく記されている。その大阪で医学を学んだ邦成は宮崎の誰よりも橋の役割そして修理・維持のための費用捻出のためには橋の渡り賃が必要であることを認識していたはずである。


 明治16年、宮崎県再置に際し、邦成は県に堅牢な木橋の架け替えを申請するも、許可を得られず、橋及び新橋構築用の杉板百余間(200メートル弱)を県に寄付するのである。そして翌17年6月、県によって2代目橘橋に架け替えられ賃取橋と言われた橘橋も無賃橋となったのである。

 橘橋が無賃橋となってから40年後の大正12年に橘橋以外に初めて架橋された赤江橋そして2年後の大正14年に架橋された高松橋はともに(私費や公費ではなく)架橋組合が公募した架橋資金によるものであったが、依然として賃取橋であった。


 邦成は橘橋の収支決算を履歴書に
「橘橋架設並ニ修繕費一切金四千弐百円、橋賃収入金三千三百円、元資金九百円ノ闕(欠)損トナル」  ( )著者注
と記している。これからわかることはわずか4年とはいえ橋の修繕維持費は架橋費に匹敵もしくは上回る金額に及んでいたということである。


 橋の渡り賃は一人6厘、牛馬諸車1銭8厘であり、仮に橋賃収入3,300円の8割、つまり2、640円が人だけの渡り賃だと考えると実に4年間で44万人の人が橘橋を渡ったことになるのである。それから約40年後、赤江橋の渡橋者が2年間で33,000人であった事実と比較すれば[橘橋の役割]はおのずと理解できるかと思われる。

 橘橋を県に寄付した後、邦成は橘橋に一切関与していないが、橘橋は度重なる流失にもかかわらず宮崎県はその都度直ちに再架橋している。そして明治31年、邦成が80歳で死去した際には橘橋はすでに4代目となっていたが、大淀川には未だ[橘橋以外に橋は無かった]事実は邦成の橘橋架橋の先見を理解するに十分である。

 [橋]を知らなかった宮崎の人々そして行政は邦成の橘橋によって初めて橋の役割と恩恵を知ったのではなかろうか。医師としての業績は当然ながら橘橋架橋や大阪との汽船航路開発など邦成の宮崎の近代化に対する功績は極めて評価されるべきであるにもかかわらず残念なことに彼の実像は今に伝えられていない。


 邦成の初代橘橋から100余年を過ぎた現在もその[橋]の名は残っているが、独力・私財によって架橋し自ら橘橋と名付けた邦成の名は現在の橘橋北詰にある橋碑の裏側の文章中にわずかに記されているだけである。かつて邦成の橘橋架橋の功績について[石に刻してこれを不朽に伝うべく中村町側橋畔に建碑された]とされているが、現在ではその碑さえ所在を失っている。

 初代橘橋架橋は邦成の郷土宮崎に対する業績の一つに過ぎないのである。

(参考資料)
 宮崎市史 宮崎市史年表 宮崎県政外史 大阪市政 日向郷土事典 宮崎県大百科事典 回想記 宮崎県の歴史


(注)写真は福島邦成翁遺品の中から故福島芳子氏のご好意によりお借りしたものである。写真の詳細については不明であるが、邦成の遺品ということと橋脚、欄干から判断するに、龍ヶ井(現江南荘付近)から撮影した初代橘橋と考えられる。著者の知る限り初代橘橋の写真は書物等に掲載されたことはなく極めて貴重な写真である。橘橋上には人力車が数台見られ、手前の岸には架橋以前に活躍したものであろう渡し舟が朽ち果てているのが見受けられる。