「橋」めぐりツアー報告
2002年9月、「熊本石橋ツアー」を実施しました。
主な見学先は、
○橋本勘五郎 (石工) の里、 「東陽村石匠館」は、日本で初めての石橋及び石工技術のユニークな資料館として平成6年にオープン。 東陽村には、江戸時代から明治時代にかけて全国各地に数々の石橋(通潤橋、霊台橋、鹿児島県の西田橋、皇居の旧二重橋など)を造った石工集団「肥後種山石工」の発祥の地。
○砥用町(ともち)へ石橋郡が、一番多い熊本県内で砥用町には日本最大の霊台橋から最小の西の鶴橋まで形もいろいろ変っている30数基が架けられました。石橋の宝庫、石橋の町と言われるようになっています。
見学順に主な写真にて紹介していきます。
番号 | 訪問先 | 橋名 |
---|---|---|
1 | 東陽町 | 鍛冶屋自然石橋 |
【橋についてやデータ等】 橋本勘五郎の隠居仕事と伝えられる。何の加工もしていない自然の石でアーチが組まれている不思議な眼鏡橋。どうしてアーチが壊れないのか?どうやって洪水に耐えてきたのか、名工の極意をみる。 ▼明治28年(1895) 長さ:2.0m 幅:0.4m 径間:1.0m |
||
2 | 中央町 | 二俣橋 [ No2|No3 | No4 | No5 ] |
【橋についてやデータ等】 双子の石橋からなる珍しい眼鏡橋。林七の長男 嘉八の架設。二俣橋周辺は「二俣五橋」と呼ばれ、江戸・大正・昭和の橋が存在。 ▼ 文政12年(1829) 長さ:28.0m 幅:3.3m 高さ:8.0m (第1橋) ▼ 文政13年(1830) 長さ:27.0m 幅:2.5m 高さ:8.0m (第2橋) |
||
3 | 砥石町 | 大窪橋 [ No2|No3 | No4 ] |
【橋についてやデータ等】 洪水に耐える為のせり上がった姿は、まるで中国の風景である。 大窪橋は霊台橋と同じく、砥用の惣庄屋・篠原善兵衛(ささわら ぜんべえ)の発案で、津留川に架けられたものです。 ▼ 嘉永2年(1849) 長さ:21.0m 幅:2.7m 高さ:6.05m |
||
4 | 砥石町 | 霊台橋 [ No2|No3 | No4 ] |
【橋についてやデータ等】 かつては22年間に5回も掛け替えられた交通の難所。橋本勘五郎兄弟の架橋。 全長90メートルの巨大な石橋。石橋の単一アーチ橋としては日本最大級。 昭和41年までトラックやバスなどの重量車を通してきた。 ▼ 弘化4年(1847) 長さ:89.86m 幅:5.45m 高さ:16.03m |
||
5 | 御船町 | 門前川眼鏡橋 [ No2|No3 ] |
【橋についてやデータ等】 永寿寺の門前を門前化エアの名前がついた。門前川眼鏡橋は、つなぎ目に「石のくさび」が打ち込んである珍しい石橋。かつての主要街道で活躍し、その重責を果たした後もその優しい姿を残しています。 ▼ 文化5年(1808) 長さ:7.0m 幅:2.6m 高さ:4.6m 径間:6.4m |
||
6 | 御船町 | 下鶴橋 [ No2|No3|No4 ] |
【橋についてやデータ等】 橋本勘五郎・弥熊親子の作。二男 弥熊が初めて架けた眼鏡橋として有名。酒好きの弥熊は、下鶴橋の親柱に「とっくり」と「さかずき」のシルエットを残した。弥熊は下鶴橋のたもとで一人の娘と出会い、この橋の見える地で幸せに暮らしたという。 ▼ 明治19年(1886) 長さ:71.0m 幅:5.3m 径間:27.3m |
||
7 | 菊池市 | 迫間橋 [ No2|No3|No4 ] |
【橋についてやデータ等】 旧隈府町及び豊間方面と西迫間・小木村を結ぶ重要な橋で、迫間川渓谷を跨いでいる。当時は種山村の三五郎一族の全盛時代でしたが、この橋は地元西迫間の伊助の作で、アーチの部分が扁平になっているのが特徴となっています。 ▼ 文政12年(1829) 長さ:36.4m 幅:4.0m 高さ:10.0m 径間:20.0m |
||
8 | 菊池市 | 立門橋 [ No2|No3|No4 ] |
【橋についてやデータ等】 旧隈府町から日田豆田に至る上津江往還の難所とされた鉾ノ甲川を跨いでいる。 石工は通潤橋を築いた宇市。 堂々たる風格を備えた大型の単一アーチ橋。 県指定重要文化財。彫りこみ漆喰で書かれた立門の文字が有名です。 ▼ 万延元年(1860) 長さ:75.0m 幅:3.6m 高さ:11.4m 径間:21.7m |
||
9 | 矢部町 | 通潤橋 [ No2|No3|No4|No5 ] |
【橋についてやデータ等】 江戸時代に造られた日本最大の水を通す石橋。農業用水や生活用水を白糸台地に送るために、矢部手永の惣庄屋・布田保之助らによって完成しました。 約6キロメートル離れた笹原川の上流から水を引き、水路の総延長は約30キロメートル、かんがい面積は約42ヘクタールにも及び、通潤橋の完成後に、約100ヘクタールもの新しい水田が開墾されました。現在では約170ヘクタールに水を送っています。 宇市、丈八、甚平の作。 1960(昭和35)年に国の重要文化財に指定されました。 ▼ 安政元年(1854) 長さ:75.6m 幅:6.3m 高さ:20.2m 径間:27.54m |
||
10 | 東陽町 | 石匠館の紹介 |
【橋についてやデータ等】 「東陽村石匠館」は、日本で初めての石橋及び石工技術のユニークな資料館としてオープン。 東陽村には、江戸時代から明治時代にかけて全国各地に数々の石橋(通潤橋、霊台橋、鹿児島県の西田橋、皇居の旧二重橋など)を造った石工集団「肥後種山石工」の発祥の地。石橋は当時の人たちにとって、洪水にも流されない夢の架け橋でした。 石匠館では石橋づくりの基礎となる支保工の模型をはじめ、日本の眼鏡橋と世界のアーチ橋の写真展示。ファンタビューや体験コーナーでは、石橋ができていく工程をわかりやすく、楽しく学ぶことができます。 |