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熊本「通潤橋」物語

関戸 昭文(熊本県在住)

 矢部の轟川に全長75.5mの堂々とした姿を横たえる吹上橋、後に通潤橋と名を改めたこの大きな石橋に欄干がまったく無いのはなぜなのか? 橋からの放水は何のため? そして、異様に腰高なその姿と熊本城の武者返しを思わせる脚柱の石の組み方など、他の多くの石橋と異なる特徴を持つこの橋に、私は知らず知らずの内に魅せられていった。そして、この橋が実は人を渡すためのものではなく、人々の切なる願いから生まれた 空を渡る水路橋と知って、すべてを納得したのである。

通潤橋(矢部町)

 今から一世紀半も昔、矢部の惣庄屋であった布田保之助(ふたやすのすけ)は、寒風吹きすさぶ轟川渓谷に立ち、対岸の笹原川からこの白糸大地へ水を引くことが出来ないものかと考え続けていた。

 白糸台地は水の便が非常に悪く、そのため農作物も満足に出来ず、また毎日の飲み水にも事欠く矢部一番の貧乏村であった。だが谷は余りにも深く、そして険しい。水を対岸から引くことは到底不可能に思われた。

 保之助は、惣庄屋 布田市平次の子として生まれたが、早くに父親を失い苦労を重ねた。村人思いの保之助は人々よりの人望も厚く34歳で惣庄屋となったが、十代の後半には漠然とながら水路橋の構想を抱いていたといわれている。通潤橋の原形とされる雄亀滝橋の完成の時には、これを架けた石工 岩永三五郎(当時は未だ芝口姓)と出会い、そして将来自分が惣庄屋になった時にはぜひ石橋を架けて欲しいと頼んでいるのである。保之助が17歳の時であった。それから35年の月日がたち、保之助は52歳にもなろうとしていた。いよいよ永年の夢を実行に移す時が来た。

 保之助は、この轟川渓谷に巨大な水路橋を架け、そこに水を通す方法を考えた。だが そのまま橋を架けたのでは余りに大きくなりすぎるため、石橋を架けられる可能な程度まで高さを落とし、さらにサイホンの原理を応用して 一度水路橋まで下りた水を対岸の大地まで引き上げるのである。これは当時としては画期的な考えであった。


サイホンの原理 35年前の三五郎との約束は、甥の種山石工 宇市・丈八(後の橋本勘五郎)・甚平の兄弟が代わって果たすこととなった。時は流れ、すでに丈八達の時代になっていた。石工の祖 林七が見様見真似で修得したアーチの技術は、三代目の丈八達で大きく開花していた。彼ら兄弟は、あの霊台橋 さらには御船川目鑑橋をも完成させたばかりの自信に満ちあふれた技術集団であった。

 しかし、丈八達の前に難問は続出した。険しい地形、水管の処理、中を流れる水道の振動など、あらゆる橋を架けてきた彼らにも、この巨大な水路橋は前代未聞の難工事であった。木で作られた水管は水圧のため吹き破られ、さらに石で作り直された。だがこれも失敗した。継ぎ目に鉄を鋳こんでも水が漏れるのである。彼らは研究に研究を重ねた特殊なしっくいを使い、やっと水を通す実験に成功した。

水管  また、架橋可能な高さまで橋を低くするとはいえ、石橋としては日本一の21mという高さである。この高く、そして水管等が入って非常に大きく、そして重たい石橋を支えるため、脚柱にも工夫が凝らされた。通常の石の組み方では無理なことを直感的に悟った彼らは、熊本域の石垣からその発想を得たのである。俗に「武者返し」と呼ばれるこの独特の石垣の組み方が、見た目の美しさのためではなく、実は重たい天守閣を弱い地盤で支えるためにどうしても使わざるを得なかった“技術”であることを丈八は見抜いていた。この時の副棟梁丈八は、通潤橋架橋でもその非凡な才能を発揮したのであった。彼らの素晴らしい点は、必要とあれば過去の古い物からでも立派に技術を修得出来たことであろう。

こうして一年八ヶ月の工事の末、橋は完成した。そして不毛の大地を水田へと変え、現在もまったくその機能を失うことなく水を送り続けている。9月の八朔祭の時など見事な放水が見られるが、これは元来水管の掃除のために行うものであり、水路橋ゆえの美しい姿である。