宮崎県内の代表的な石橋
九州は石橋の宝庫であす。しかし、案外と日本に石造アーチがあることは知られていない。
この石橋は幕末の一人の石工により架けられはじめ、弟子達により代々受け継がれ、技も磨かれていきました。
長崎に生まれた藤原林七は、平家落人の集落として知られる熊本県五家荘麓の種山でアーチ技術の研究に没頭、試行錯誤のすえ林七流アーチ論を編み出し、種山石工の祖といわれました。その技術は秘伝として一族のほかに漏らすことを固く禁じ、林七は4人の息子とともに数々の石造アーチ橋を架けました。
林七の四人の息子の中でも三五郎は優秀な石工で名字帯刀が許され岩永三五郎となりました。宮崎の石橋もこの三五郎の流れをくむものでありますが、他県に比べ数は少ない。このコーナーでは、宮崎県内における有名な石橋6橋について掲載しています。
久兵衛橋
所在地 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字上野
橋のデータ
形式:石造アーチ
橋長:20.7m
径間:10.9m
橋面高:8.0m(アーチ天端まで5.6m)
完成:文久3年(1863年)
橋名は、この橋の寄付者である地元で酒造業を営んでいた資産家の「久兵衛」に由来しており、最大の特徴としてアーチの上幅より基礎が広いことがあげられる。(橋面4.3mに対して底幅6.9m)
この技術は岩永三五郎が鹿児島県の甲突川にかかる新上橋(上幅、下幅の差が1.7m)において初めて用いた技であるが、これは肥後の各地で応用されており、久兵衛橋の拡幅もその一環と考えられ、肥後の技術が来ている事を示している。さらに、肥後の技をくむもう一つの特徴として見せかけの二重アーチがあげられる。これも三五郎が鹿児島県で初めて使った技である。宮崎県唯一の江戸期の橋であるが、仕上げも立派であり側面には蔦類も茂り、風情を漂わせ、川面で遊ぶ水鳥が心を和ませてくれる。
太鼓橋
所在地 宮崎県えびの市大字大河平字土川
橋のデータ
形式:石造アーチ
橋長:58.0m
完成:嘉永年間(1850年)
太鼓橋は、享保用水路(1732年完成、総延長6800m、灌漑面積316ヘクタール)の一部として有島川に架けられた水路橋で、110センチ×50センチ角の石積となっており、江戸時代の橋として工法的にも貴重なものであり、農作業用道路としても重要な橋である。
当時は八代将軍徳川吉宗の時代であり、この用水路工事は夜間に提灯を配置して、土地の高低を目測して測量し、川岸に沿い山麓づたいに開削したもので、途中5カ所の隧道が設けられており、この隧道工事は非常に難工事で賃金払いの方法としてノルマ制をとり隧道掘削岩屑一升いくらというようにして支払ったと云われている。さらに途中河川を横断するところにあり、洪水のたびに流出していた水路橋(おそらく木橋だったと思われる)を太鼓橋に造り替え、150年近く経過した現在も農村と農地の重要な役割を担っている。
平成8年には、太鼓橋左岸の上流、下流側に約900・の緑陰広場を設けたほか、親水護岸や遊歩道の整備も行われた。(中山間地域の活性化を図る県営ふるさと水と土保全モデル事業の一環。)
この橋の約400m下流には後述の「めがね橋」もあり、毎年5月25日には「水天祭」が行われており、観光資源として期待されている。
めがね橋
所在地 宮崎県えびの市大字大河平字佐牛野
橋のデータ
形式:3連石造アーチ
橋長:58.2m
径間:14.7m+28.8m+14.7m
幅員:2.3m(全幅3.16m)
橋面高:17.2m(アーチ天端まで15.2m)
完成:昭和3年
この橋は、熊本営林局により飯野駅貯木場までの木材搬出用に建設されたもので、昭和2年に着工され、材料としてはこの有島川上流の「土川」より切り出し木馬で運搬した50センチ角の切石が使用されている。
工法としては、まず基礎部を造り(飯野町の建設業者 片平熊太郎氏施行)、アーチ形に櫓を組んでそれに合わせて1個1個の石を積み重ね、最後にアーチの一番中央に親石と呼ばれる五角形の石を組み込んで造られており、完成跡の最後に櫓をはずす時には1個の木を抜けば、すれての櫓が崩れるようにしてあったと云われている。(橋本体は鹿児島県日置郡串木野の肥田佐兵衛氏施行) 別名「太鼓橋」とも云われており、点検の結果、車両通行禁止となっている。
乙姫橋
所在地 宮崎県日南市
橋のデータ
形式:石造アーチ
橋長:19m
幅員:4.85m(全幅5.65m)
橋面高:6.9m
完成:明治36年
酒谷川、広渡川の上流に当たる飫肥、北郷方面は昔から飫肥杉の産地で藩財政の支えとなっていたため、1683年(天和3年)飫肥藩の5代藩主伊東祐実は飫肥杉輸送の能率をあげるため堀川運河の建設を計画、着工、2年4ヵ月と巨額の費用、膨大な労力を投入し1686年、延長900m、川幅平均27m、最大水深6mの堀川が完成した。当時、この堀川には3木橋が架かっており(現在は7橋)、このうち1橋が乙姫橋である。
この乙姫橋は、明治32年飫肥の石工、石井文吉氏により石橋による架替工事に着手、4年の歳月を費やして明治36年8月に完成した。当初、高欄はなく、後年大島の通称「御影石」が取り付けられた。さらに、乙姫橋を中心に商業地帯が自然発生的に展開され、堀川で分断された港地区とその後背地を結ぶ新しい街づくりにこの石橋の果たす役割は大きく、通行量も非常に多かった。
しかし、時代とともに陸上輸送の発展により運河の利用は減少し、飫肥杉(弁甲材)の筏下りの風景もあまり見られなくなっていったが、平成4年松竹映画、寅さんシリーズ第45作「男はつらいよ」青春編にて堀川が全国上映され、一躍クローズアップされた。それ以来、乙姫橋のロケ地へ立ち寄る旅行者の姿を多くみかけるようになった。
二俣橋
所在地 宮崎県都城市安久町尾平野地先
橋のデータ
形式:石造アーチ
橋長:上流側32.7m、下流側38m
径間:16.9m
橋面高:614.3m(アーチ天端まで12.23m)
幅員:4.04m(4.64m) 完 成:明治40年
都城から安久・尾平野を経て日南に通じる道路は、明治34年に県道として改良に着手したが、安久温泉から上熊トンネルまでの間が難工事ではかどらず、明治37年日露戦争により一時中断、明治40年ようやく開通、この年に二俣橋と上熊トンネルが竣工した。 二俣橋が架かる尾平野は、島津藩が開拓、農民を移住させ、鉄銃を造るために志布志から安楽川沿いに末吉町、新田山を経由して砂鉄を運びこみ、木炭を焼き秘密の製鉄を行っていたのではないかと云われ、人の踏み込んだことのない深い山と鍋谷の渓谷のため孤立したところであった。 この二俣橋が架かった当時は九州一を誇り、橋を架けるための運搬手段は人力による他はなく、1本の流木を木挽きが二つに胴割りし、人力で巻き上げて基礎造りを行い、石工による切り石で積み上げて造り、当時の桂内閣の時、米が60・で4円94銭、大人の日当が40銭、石工で50銭程度とある。 二俣橋が架けられたことにより、尾平野の山林開発が進み、都城との交流が盛んになり、明治42年には学校も設立され、入植が急増し賑わっていた。 現在は、近くに新しい橋梁(鍋谷橋)が架けられ、都城市道橋となりまた安全のため自動車通行禁止となっており当時の面影は残っていない。
昭和橋
所在地 宮崎県日向市大字富高字門田
橋のデータ
形式:3連石造アーチ
橋長:17.87m
径間:4m×3連
完成:昭和7年
日向市街地を東西に流れる富高川の上流、本谷に昭和橋は架かっており、県北でも珍しい3連アーチの石橋で、農道と農道を結び河床にはヨシが繁り人が歩いて渡れる小さな流れの中にある。使われた石はすべて門川町内から切り出し、馬車で運搬したといわれ、橋の風景の美しさ、また歴史的な石橋の様相から昭和62年9月30日、日向市の有形文化財(建造物)に指定されている。
特徴は、久兵衛橋と同じように、アーチ部分の石積みが二重になっていることがあげられ、種山石工一族の岩永三五郎の技術が使われている。設計が小山字太郎氏といわれており、彼は香川県丸亀市で石工として修行したのち鹿児島県川内市にもいった形跡があるので、鹿児島で石橋の技術を修得し、そこで三五郎の影響を受けたのではないかと云われている。
さらに、橋脚部に五角形の石を用いてその石から両側にアーチの円弧となる石を積み上げ、優美な意匠的な工夫をこらしていることも、三五郎の影響が考えられる。
また、富高川上流の地形や水量、出水時の諸条件を詳細に調査、出水時の流水による衝撃緩和を考慮して橋の架橋地点だけ川幅を広げ、そのために3連のアーチとしていることは、技術者として総合判断能力の高さがうかがえる。
普段、人通りは多くないが、農繁期になると往来が激しくなり、田園風景を引き立てる効果を持ち、近くに住む人は、「夕日が山に沈むときの石橋の表情は、絵にもかけない美しさ」と話している。