「福島邦成の生涯」出版
田代 学 著(絶版となりました)
橘橋を架けた医師「福島邦成の生涯」。日本の尖端(時代・流行の先頭)を学び、宮崎の為に生きた邦成の業績とその人生をリアルのそして彼の目から見た宮崎の黎明期を垣間みることが出来る1冊である。平成10年は彼の没後100年である。公に生きた彼の人生は、混沌とした現代において一つの課題を投げかけてくれる。本の概要を理解いただくために本のはじめにと序章を掲載させていただきます。
はじめに
福島邦成(ふくしま・くになり)は、その実像がほとんど伝えられていないにもかかわらず「橘橋を個人で架けて通行料を取っていた医師」として、今なお多くの宮崎市民が、おぼろげながらも知っている。
しかし、この伝承は、邦成の「橘橋を架けた」偉業を称えるというよりも、残念ながら「橋賃を取っていた」ことを悪行として非難する感が強いことは確かである。
今までに、邦成の業績が、郷土誌や新聞などに掲載されたことは数多いが、結局は彼の実像にせまることなく、履歴が羅列されたに過ぎない。
私自身も、平成7年に出版した[消えた赤江川]の中で、「初代橘橋と福島邦成」という項を著しているが、既書を参考にしただけの総論的内容に止まっており、孫引きのために幾箇所に間違いを記していることをお詫したい。また、日本史上に登場した宮崎人は少なく、そのために「宮崎には偉人がいない」とも評されることがある。しかし、郷土の偉人の条件とは、全国史に登場することよりも、どれほど郷土に貢献したかではないだろうか。
この意味では、江戸、京都、大阪そして長崎において7年間学び、全国レベルの資質を持ちながら、あえて帰郷し、宮崎の近代化に貢献した邦成は郷土の偉人として評価されるべき人物であると言える。
しかし、邦成の実像が顕昭されることがなかったために、正しい評価を受けることなく、没後百年が過ぎてしまったのである。
今回、平成10年1月20日に邦成の没後100年を迎えるにあたり、福島家の協力を得て、邦成の資料を原典から総整理し、改めて彼を顕昭する機会に恵まれた。
その過程において「何故、彼ほどの人物が正しく伝えられてこなかったのか」という疑問が生じるとともに、宮崎に生まれ、日本の尖端(時代・流行の先頭)を学び、宮崎の為に生きた邦成の業績とその人生を、宮崎の人々に伝える義務を感じたことは否めない。
宮崎は、明治6年の初代宮崎県設置後に発展を遂げたために「歴史がない、文化がない、偉人がいない」と言われることがあるが、福島邦成の生涯はその否定に等しく、近代宮崎の幕開けそのものであると思う。そして、彼の生涯を通して、宮崎の幕末から黎明期が、郷土の人々に少しでも伝わることを切に希望したい。
最後になりましたが、多くの資料を提供して下さった現当主福島順一氏に、心から感謝するとともに、本書を福島邦成翁没後100年の記念として、霊前にささげていただけたら幸いに思います。
田代 学
( 序章を見る )