橘橋の歴史
初代橘橋
明治13年4月19日、上野町通りと中村通りの西側の路(南小路)を結ぶ
初代橘橋は、福島邦成の私費で完成、長さ350m、幅3.9m、高さ3.2m。
福島邦成の負担した架設費用は、予定の994円を上回る1,390円で現在の8千万円に相当するが、その約半分が人夫賃であった。
4月21日には、初代橘橋の開橋式が盛大に行われた。
橋は、わずか4ヶ月後の同年8月4日の大水で流失。その後再架橋。
明治16年7月 県庁が開庁された契機として、橘橋並びに橋補修材を宮崎県に寄付
二代目橘橋
明治17年3月 県は、架け替え工事着手、この時、橋は初めて上野町通りと中村町通りを結ぶことになった。
同年6月17日橘橋は完工したものの、わずか3ヶ月後の9月23日暴風雨のため流失した。
三代目橘橋
ほとんど資料が無く、再架橋の年月日・長さ・幅等もわかっていないが、明治21年6月17日に前日からの大雨により流失した。
四代目橘橋
明治21年8月14日に着工し、同年12月1日に、長さ362m、幅5.4mの木橋として完工した。この橋は、宮崎県最初の国道改修工事に伴って架設されたもので、道路拡張を拒んだ上野町通りに代わって新しく開削された国道と中村通り(実際はやや下流側)が接続された。
この国道はやがて橘通と呼ばれていったように、橋と道路が宮崎の町づくりの要となる時代であった。この橋は、大淀川下流に架設された木橋の中で最長の39年という寿命と誇ったが、昭和2年8月11日の台風で流失した。
五代目橘橋
「橘橋架設工事並びに接続道路工事(注・橘通りと中村町通りの拡張舗装工事)」として、昭和5年4月1日に着工し、
2年後の同7年4月30日に、長さ385m、幅16.4m(歩道各2.7m)の大淀川下流における最初の永久橋として完工した。
この橋とほとんど時を同じくして橘通り、道路沿いの商店のすべてが一新した。
橘橋と橘通りは宮崎の町づくりの核をなし、県庁舎の新築工事、上下水道設置などで町は一新し、大淀川+橘橋+橘
通り=観光地宮崎のイメージが定着したと言っても過言ではない。
昭和40年代に入ると増加する交通量をさばききれなくなっていき、昭和41年5月宮崎県土木部は、橘橋の架け替えを
発表。流失することもなく、また美しさ故に多くの市民に愛された五代目橘橋は、昭和51年8月半ばに撤去作業は、
完了し、その姿を消した。
六代目橘橋
昭和47年5月20日まず旧橋の上流側に四車線の内二車線部分の架設工事に着工した。しかし、同48年のオイルショックのために資材調達が困難となり、予定を大きく遅れて昭和49年10月1日にやっと開通した。下流側の架設工事は、昭和51年11月に着工、同54年の宮崎国体に間に合わせるために工事は急がれ、同54年6月に完工し、同23日に全面開通となった。長さ389m、幅28m、片側2車線で両側に各5mの歩行者・自転車専用路を持つ6代目橘橋は、昭和51年6月25日に開橋式が行われた。
郷土の作家・中村地平は昭和19年発刊の新風土記叢書の中に五代目橘橋について、その美しさを記している。
「県内の大抵の町は、水の眺めにめぐまれているが、宮崎市もその例にもれない。大淀川という大河が、市内を貫流しており、二百十余間もある橘橋が架かっている。この川の眺めを、宮崎市からとり除いたら、町の美しさは半減するにちがいない」 と書いている。橋が変わっても、時代が変わっても、そうあって欲しいし、そうしなければならない。