「魅せられて-里の石橋」出版を祝して
日本列島は東西に狭く、南北はほぼ北緯30度から45度にわたって細長く、気候温順で森林の成育に最適の自然環境であったため、わが国は原始時代はもちろん有史時代に入っても主要な構築物はすべて木材に頼るという「木材文化」の国であったと言えよう。
われわれの最も関心の深い橋梁についても、たとえば山梨県大月市の「猿橋(えんきょう)」、京都府宇治市の「宇治橋」(近くの橋寺(はしでら)放生院に宇治橋断碑が現存)などいずれも木橋であった。
もちろんその後石材による桁橋は架けられたが、石造アーチ橋が出現したのは沖縄で15世紀、長崎で17世紀に入ってであった。
それまで人々が渡っていた木橋にくらべて石造アーチ橋の完成は、現在われわれが考える以上に交通上の飛躍的な発展であったであろう。
たとえば、大分市影ノ木に現存する「金提橋」(単アーチ、慶応元年)の橋碑文の一節に完成時のよろこびを表現して、「於是夏秋洪潦洶湧満谿絶無有陥溺之虞留滞之憂○往来是塗者挙忻喜踊可謂非常之竒功無疆之鴻烈也」(橋の竣工によって夏から秋の大水で濁流がわき上がる谷川の中に落ちておぼれるおそれも、渡れずに困ることもなくなった。
この道を往来する者が皆おどりあがって喜んだ。
すぐれた功績、最強の大工事と言うべきである)とあるが、他の石橋の橋碑文にも同様の感激が随所に見られる。
このように石造アーチ橋を架けるということは、当時の地域住民にとっては最先端技術を駆使して生活文化の向上を図るという画期的な大事業であった。
換言すれば、石橋は先人の膨大な労力と膏血を絞った資金とで架けられた最も人間臭いモニュメントであるといえよう。
幸いここに『魅せられて-里の石橋たち』と題する一書が刊行されて、そうした先人のモニュメントを写真と記録で残されることになったことはまことによろこびに堪えない。しかも創業60周年を迎える高山總合工業株式会社が、その記念行事として大分県内の石橋(アーチ橋のほか桁橋などを含む)についてすばらしい写真、石橋解説、架設工法解説までをまとめられたことは驚嘆の至りというほかはない。
聞くところによると、写真の撮影・選択は同社の高山淳吉社長、工法解説は同社の安全労務部次長薬師寺義則氏、石橋解説は石橋研究家岡崎文雄氏がそれぞれ得意の分野で腕を振るわれ、とくにこの企画発足以来県内ほとんどすべての石橋を上記3名の方が一緒に撮影と調査に歩き、時候や陰影を選定するために一つの石橋を数回にわたり訪れたりして、最後はひとびとの生活とかかわる石橋の姿として83基98葉の写真をえらび出したとのことである。
ちなみにこの企画を分担された高山・薬師寺・岡崎の3氏とも「大分の石橋を研究する会」の熱心な会員であり、本書の編集にとり組まれた熱意に対し深甚な敬意と、完成出版について絶大な祝辞を呈するしだいである。