魅せられて-里の石橋たち
写真展会場
No | 橋の名前 | サイズ | コメント |
---|---|---|---|
01 | 赤松橋 (あかまつはし) |
PRE | FULL | 力強い雄志は今も変わることなし(日出町) 明治30年9月架設 橋長47m 2連 当時の国道35号線(現在の国道10号線)に八坂川を跨いで架設された石橋で現在は廃道となっている。厳寒の中の工事であり、コンクリートの養生方法など十分な知識がなかったこともあって、多量のコンクリートが河床に捨てられそのまま固まっているという。工事の中断を命ぜられる等があり工期も遅延し請負人都留茂一は違約金2,910円を微され落札額8,500円を大幅に上回る13,500円の支出を余儀なくされている。左岸下流側親柱に刻まれた都留茂一の名は執念の2字に見える。石工は南端村 (現山香町)の安部福太郎とされている。 |
02 | 田原橋 (たばるばし) |
PRE | FULL | 暮らしの中で生きる橋(大分市) 昭和31年3月架設 橋長8.7m 単一アーチ 犬飼町に隣接する端登の橋本楠雄氏宅は旧伊与床庄屋の家である。表の出入口が石段になっており、自動車を屋敷内に乗り入れるために鴬谷と名付けた小さな谷に架っていた桁石橋を架け替えたそうである。梅の花とむささびの出迎えを受けたのは思わぬ収穫であった。 |
03 | 明正井路第一拱石橋 (めいさいいろだいいちこうせきはし) |
PRE | FULL | (竹田市) 大正8年架設 橋長78.0m 6連 明正井路は緒方町の耕地を潤す大水路で、取水口は竹田市大字門田の門田川である。竹田市の中心部から高千穂に通じる県道を南下すると頭上を跨いだ大きな石橋がある。県道と門田川を渡る明正井路の水路橋で、水路橋では県内最長の石橋である。設計は明治17年生まれの矢嶋義一技師で、この後、水路下流の第二拱石橋も設計しているが心労のあまり自ら命を絶ったという。石工は熊本出身の平林松造ら9名である。 |
04 | 羅漢寺橋 (らかんじばし) |
PRE | FULL | 古代ローマの橋を思い出させる(本耶馬渓町) 大正9年架設 橋長89メートル 3連 青の洞門の上流に最近新しい禅海橋が架かったが、その禅海橋の上流にスパンが長く緩やかな弧を描いた3連のアーチが見られる。旧耶馬渓鉄道羅漢寺駅から古刹羅漢寺への参道橋でもあった煌々と電灯をつけての夜間工事が珍しく見物人も多かったという。請負は地元の岩渕万吉、石工は院内町出身の松田新之助らである。 |
05 | 柚木寺原橋 (ゆぎでらばるはし) |
PRE | FULL | 早春生命の復活(緒方町) 昭和3年9月架設 橋長53m 3連 緒方川本流で町内で最も上流に架かる。右岸は柚木地区、左岸は寺原地区で寺原柚木橋とも呼ばれる。工事請負契約書が残されており、請負者は首藤賀寿人、金額は9,384円である。石工は下流の緒方橋を架けた佐伯出身の高瀬笹一。 |
06 | 原尻橋 (はらじりばし) |
PRE | FULL | 美しいみどりにとけ込む橋(緒方町) 大正12年5月架設 橋長73m 5連 原尻の滝に上流にある。当時の設計図を見ると寸法は呎(フィート)・ 吋(インチ)で表示されており、県の中島啓文技師の設計である。工事中に右岸側が一部崩落し積み直したという。工費は高倉登氏によれば4,500円となっている。高欄の束石に寄付者の氏名と金額を刻んであるのが珍しいが、下流側は115本の全てに115人で1,774円、上流側は16本に16人で160円である。石工は、大野郡・竹田市にも多くの石橋を架けた臼杵出身の川野茂太郎である。 |
07 | 了仁寺参道橋 (りょうにんじさんどうきょう) |
PRE | FULL | お寺に続く参道橋(野津町) 昭和18年洪水で流失し昭和20年1月再築 橋長6.2m 単一アーチ 以前は、石橋を渡り石段を上がり山門に達していたそうであるが、再築の際に現在の構造に改められている。了仁寺は寛永の頃キリシタンの転宗に努めた寺である。 |
08 | 轟木橋 (とどろきばし) |
PRE | FULL | 故郷を見続けてきた(三重町) 昭和4年5月架設 橋長38.5m 2連 中津無礼川と水路を跨いでいる。川を跨いだアーチはスパン25.6m 拱矢4.5mで特に扁平である。水路を跨いだアーチはスパン8.1mであるが藪に覆われて見えにくい。橋碑の碑文では工費3,100円となっている。石工は福岡県伊田町出身の井上為吉で白山の大理石採掘で来ていたという。 |
09 | 近戸橋 (ちかどばし) |
PRE | FULL | 悠久の歴史の彼方に深い眠りにつく(臼杵市) 明治26年架設 橋長38m 単一アーチ 昭和44年乙見ダムに水没した。満水時は橋面すれすれまで水位が上昇する。近戸橋の架設は、野津町落谷から臼杵市掻懐までの道路工事の一環として行なわれており総工費は14,028円余となっている。橋の請負人堀太市は私財3,000余円を投じたという。石工は釘宮八重蔵・足立三代蔵・芦刈倉蔵の3名である。アーチの上で櫓を組んだ工事中の珍しい写真がある。近戸橋ができるまでは、上流にある旧藩道の間戸川車橋が利用されていたが、現在は間戸川車橋も水没している。 |
10 | 轟橋 (とどろばし) |
PRE | FULL | 清流に映える橋(清川町) 昭和9年架設 橋長68.5m 2連 竹田営林署の長谷川林道の軌道橋として奥嶽川の深い谷に架けられたが、現在は村道となっている。表紙に使用した工事中の写真を見ると深い渕になっている奥嶽川に多数の柱を建て下地橋を組み立てており大工事の模様が偲ばれる。水面からの高さは27m余で県内では一番の高さである。 |
11 | 池在橋 (いけざいばし) |
PRE | FULL | 懐かしい故郷(朝池町) 大正13年12月架設 橋長22m 単一アーチ 市万田川の上流で朝倉文夫記念館に近い。石工は滝尾村(現大分市)の甲斐善弘(本名佐平)で豊肥線の架設工事にも従事していたという。静かな谷合いの石橋である。 |
12 | 高野橋 (こうやばし) |
PRE | FULL | 静かな静かな里の秋(宇佐市) 大正8年架設 橋長7m 単一アーチ 麻生地区を流れる伊呂波川には小さな石橋がいくつかある。高野橋は対岸の高野堂への参道橋で左岸側の県道からは石段が設けられている。親柱の一本に地元の石工松原庄之助と桑原百之助両名の名が刻まれている。個人の寄附によるものである。 |
13 | 大正橋 (たいしょうばし) |
PRE | FULL | 志を果たしていつの日か帰らん(本耶馬渓橋) 大正3年架設 橋長27m 2連 屋形小学校のすぐ前の屋形川に架けられた児童の通学路である。桜の季節は木造校舎と校庭の桜と校門前の石橋が調和して美しい。地元の石工岩渕万吉の初期の作である。 |
14 | 鳴滝橋 (なるたきばし) |
PRE | FULL | いつまでも残して欲しい橋(緒方町) 大正11年2月架設 橋長50m 5連 豊肥線緒方駅の開業が迫っていた時期に、当時の南緒方村から緒方村へ通じる道路に架設された。現在も県道の橋で供用されている。緒方町の中心部に近く整った姿の石橋である。石工は臼杵の川野茂太郎である。 |
15 | みかえり橋 | PRE | FULL | ここはどこの細道じゃ(大分市) 大正8年架設 橋長4.3m 単一アーチ 梅で有名な吉野の天満社参道橋で、親柱にみかへり橋と刻まれている。遊歩道を跨いで架設されている。石工は上戸次影の木の宮崎光治である。 |
16 | 耶馬渓橋 (やばけいばし) |
PRE | FULL | 別名オランダ橋(耶馬渓町) 大正12年架設。橋長116メートル 8連 青の洞門の下流約500メートルの山国川にかかる石橋では全国一の長さである。オランダ橋とも呼ばれているが、工兵中尉永松昇県技師が中津土木管区事務所に勤務中に設計し監督した。請負いは岩渕万吉、石工は院内出身の松田新之助らである。耶馬渓3橋の中でもっとも下流の橋である。 |
17 | 阿南橋 (あなんばし) |
PRE | FULL | 嫁ぐ日(庄内町) 明治28年架設 橋長28m 単一アーチ 当時の佐賀県道(現在の国道210号線)に架設された石橋で、壁石は布積み、セメントを使用した石橋としては県内第一号である。下流100m のオダニの車橋と並んで今は静かである。県の技師の設計によるものとみられる。石工は渡辺音五郎とされている。 |
18 | 長瀬橋 (ながせばし) |
PRE | FULL | なつかしい風景の中の1枚(緒方町) 大正12年2月架設 橋長78.4m 6連 緒方川に架かる石橋の中で最長、原尻橋と同じく設計図は吋(インチ)・呎(フィート)で表示されており原尻橋を設計した中島技師の設計であろう。工事を請負った3名のうちの一人渡辺彦一氏(明治32年4月産まれ)によると総工費は7,390円である。 |
19 | 音波橋 (おとわばし) |
PRE | FULL | 大風景の中に荘厳な姿(臼杵市) 明治45年架設 橋長32.7m 単一アーチ 臼杵市と野津町の境を流れる臼杵川の深い谷に架かっており、ふだんは通行人もほとんど無く静かである。地元の事業家麻生音波氏の架設になるもので橋名となっている。石工は地元の竹尾伊三郎。 |
20 | 荒瀬橋 (あらせばし) |
PRE | FULL | 里の発展に命を懸けた人達のロマンがただよう(院内町) 大正2年架設 橋長47.4メートル 2連 国道387号線の旧道の石橋で、この橋を架けた松田新之助は赤字を出した穴埋めに橋の通行料をとることを許されたと伝えられている。昭和10年代に上部は築き直されている。 |
21 | 都留橋 (つるばし) |
PRE | FULL | 日脚平地に下る 秋の夕日はつるべ落し(大野町) 大正12年2月架設 橋長46.6メートル 5連 大野町田中から緒方町へ通じる県道の石橋で橋面は拡幅されている。橋の架かった平井川はこの辺りは流れもゆるやかである。大野町の石橋の中では最も長い。石工野津町川登の吉良房之助であるが、竣工を前にして、石橋の一部崩壊で下敷きになって死亡するという悲劇があった。吉良は野津町内にいくつかの石造アーチ橋を架けた高木麻五郎の弟である。 |
22 | 山王橋 (さんのうばし) |
PRE | FULL | 美しい・・・(竹田市) 明治45年3月架設 橋長56メートル 3連 飛田川地区の稲葉川に架かる大きな石橋で川原から見上げると改めてその大きさに驚かされる。当時、山鹿道(やまがみち)と呼ばれていた主要路線(竹田~産山村山鹿間)の橋である。右岸よりアーチの要石に佐藤タズ・佐藤今朝男の名前が刻まれており、資金を提供した親子を記念したものとされているが、詳細は不明である。 |
23 | 後藤家の石橋 | PRE | FULL | 水車と橋が時間を止めてくれる(緒方町) 明治36年4月架設 橋長4.6メートル 単一アーチ 緒方上井路沿いの後藤博愛氏宅の出入口で、すぐ上流の小さな水車とともに人の目を引きつける楽しさがある。後藤家は明治の頃医者であった。 |
24 | 御沓橋 (みくつばし) |
PRE | FULL | 重厚な姿には青い空がよく似合う(院内町) 大正14年8月架設 橋長59m 3連 恵良川に架かる石橋の中で最も長い。すぐ下流に農業用井堰があり、水面に映る重厚な造りの姿も美しい。竣工までに1年4か月余を要しており、工費は、県費補助・村費補助・寄附金を併せて当時としては高額の2万円である。町内景平出身の名工松田新之助の施工で、アーチ石は2重に積まれている。 |